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漢を乗っ取った“謀略家”王莽の「恐怖の大粛清」

取代汉朝的谋略家王莽的‘恐怖大肃清’。


先日発売された石平氏の新著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)では、「悪いやつほど天下を取れる」中国史を解説している。

图:前几日发售的石氏新著《塑造中国的十二恶党们》,以‘越是坏的家伙越是能取得天下’这样的角度来解说中国史。





本稿の主人公の王莽(紀元前四五年- 紀元後二三年)が、ほかならぬこの大胆不敵な「乗っ取り男」だ。彼は皇室の外戚として政権を独占したのちに、漢帝国の皇帝を廃位させたうえで自らが皇帝となり、漢に取って代わって「新(しん)」という王朝を建てた。

本稿的主人公王莽(公元前45年至公元23年),就是这个独一份的、大胆无匹的‘窃国男’。他在作为皇室外戚独揽政权之后,迫使汉帝国的皇帝废位,自己成为新皇帝取代汉朝,建立了名为‘新’的王朝。


それは紀元後8年のことだが、その時点で、漢帝国の皇統はいったん途切れたことになっている。
それから15年後に王莽の新朝が反乱によって潰されて、漢の皇室の血を引く地方豪族の劉秀(りゅうしゆう)が漢帝国を再興した。したがって、中国の歴史上では、王莽によって乗っ取られた以前の漢帝国は「前漢」と呼ばれ、劉秀が再興した漢帝国は「後漢」と呼ばれることになる。

那是在公元前8年的事,那时汉帝国的皇统被终止了一段时间。
在那过去15年后,王莽的新朝被反乱所击溃,拥有汉皇室血统的地方豪族刘秀再兴了汉帝国。由此在中国的历史上,将王莽窃国以前的汉帝国称为前汉,刘秀再兴的汉帝国称为后汉。


「謙虚」のパフォーマンスに徹しながら陰謀を進める
その王莽の初任官の黄門郎というのは、宮中の禁門の守護などにあたる郎官だから、それほど地位の高い官職ではない。しかしその後の王莽の昇進は、異例といえるほど早い。

贯彻得彻底地演绎‘谦虚’来推进阴谋
王莽出任的官职是黄门郎,也就是相当于守卫宫中门禁的郎官,官居并不显赫。但之后往往的升官,可以说是异例一般地快。


黄門郎に任官してしばらく、彼は現代でいう「青年将校」にあたる射声校尉に遷任された。それからほどなくして、彼の叔父である成都侯王商および多くの名士・高官などの推薦を受け、王莽はとうとう新都侯に封ぜられたうえで、「騎都尉光禄大夫侍中」という皇帝の側近に侍する重要ポストに任命されたのである。

当上黄门郎后不久他就升任了,相当于现在‘青年将校’的射声校尉。在此之后不久他就受到了他叔父成都侯王商以及很多名士、高官的推荐,终于不仅被封为新都侯,还被任命为皇帝近侍‘骑都尉光禄大夫侍中’。


そのときから、王莽一流のパフォーマンスはますます堂に入り、名声と昇進を獲得するための政界工作も盛んとなった。そのときの様子に関し、『漢書・王莽伝』はこう記している。

从那时开始,王莽的特色演技也越来越登入大堂,为了获得名声与晋升所做的政治工作也越来越多。《汉书王莽传》对当时的样子这样记载道:


「その爵位はますます高く、その節操はいよいよ謙虚であった。車馬・衣衾(いきん)を惜しみなく賓客に施し、家には何も余さなかった。名士を収め助け、将軍・宰相・卿大夫らと交わり結ぶことがはなはだ多かった。それゆえに位にある者がこもごも彼を推薦し、遊説する者が彼のために談論し、そのため王莽の虚名は高くあまねく、伯叔父たちをしのぐほどであった。王莽はあえてことさら奇異な行ないをし、これに処して恥じなかった」

‘宿卫谨敕,爵位益尊,节操愈谦。散舆马衣裘,振施宾客,家无所余。收赡名士,交结将相、卿、大夫甚众。故在位更推荐之,游者为之谈说,虚誉隆洽,倾其诸父矣。敢为激发之行,处之不惭恧

(白话文版:他在皇宫担任警卫值班,十分谨慎,官职日益升高,但他却日益愈加谦逊。分出车马与裘服来施济宾客,以致家无所余。招揽收济名士,结交的将军、丞相、卿大夫非常多。所以上位者更加的推举他,名士们为他游说,虚名日益盛隆,很快就超过了他的叔父伯父。他敢为做出造作之事,却毫不羞耻。)





『漢書』が記したこの政変劇の粗筋から、王莽という謀略家の恐ろしさの一端がよく分かってくるであろう。表向きは「謙虚」なふりをして「虚名」を博していながら、裏では用意周到な陰謀を密かに進めていた。この陰謀の実施によって、王莽はライバルの淳于長を潰し、大司馬である王根に取り入ってその後継者となったのである。

根据《汉书》所记的这出政变剧的脉络,可以略微了解到王莽这位谋略家的恐怖之处。他表面披上‘谦虚’的外衣博得了‘虚名’,背后却是用意周到且严密地推行着他的阴谋。通过实施该阴谋王莽打倒了对手淳于长,进入大司马王根法眼,并成为他的后继者。


例の「献身的な看病」から14年目にして、38歳となった王莽は、やがて大司馬(国防大臣)の座に昇り、皇帝を補佐する立場で最高権力の中枢に入った。

在众所周知的‘献身看病’14年后的38岁王莽终于升到了大司马(国防大臣),以辅佐皇帝之位进入了最高权力中枢。


そのときから、王莽のパフォーマンスはさらに本格的なものとなった。『漢書・王莽伝』はこう記した。

从那时起他的演技变得越发精纯。《汉书王莽传》如此记载。


「王莽はすでに同輩を抜きん出、伯叔父たちの後を継いで政を輔佐し、前人をしのぐ名誉を挙げようと望んで、不屈の努力をかさね、賢良の諸士を招聘(しようへい)して領地の収入を賞賜(しようし)としてことごとく振る舞い、しかも自分はいよいよ倹約した」という。




こうしたなかで、王莽はとうとう中央官界から追い出されて、自らの領地である南陽郡新野(しんや)県に戻って謹慎の生活を送ることになった。24歳で遅い出世を果たして以来、王莽はしばらく失意のドン底に陥ったのである。

就这样王莽被从中央官场赶出,回到了自己的领地,在南阳郡新野县谨慎度日。自打24岁时略晚地在世间崭露头角以来,王莽暂时陷入了失意的低谷。


しかし王莽にとって運の良いことに、新野で謹慎してわずか一年後、哀帝が突如崩御した。帝には後継者としての子がなく、祖母の傅氏も生母の丁氏もすでに亡くなっているから、宮廷は大混乱に陥った。そのとき、王氏一族出自の孝元皇后(政君)は素早く動いた。

但对于王莽来说是好事的是,在新野仅仅度过了谨慎的一年后,哀帝就突然驾崩了。皇帝没有留下继承皇子,祖母的傅氏与生母丁氏也都已经去了世,宫廷陷入了大混乱。那时王氏一族出身的孝元皇后(政君),很快有了动作。


哀帝の亡き後、先代皇帝の生母で先々代皇帝の皇后である彼女の権勢を押さえ付ける者は、宮中にはもはやいない。孝元皇后は亡くなった哀帝の帯びた皇帝の璽綬(じじゅ)を手に入れたうえで朝廷を押さえ、哀帝の側近である大司馬の董賢(とうけん)の実権を剥奪した。そして、董賢に取って代わって政権を握るべき人物として、王氏一族の王莽を領地から呼び戻した。


哀帝亡故后,在后宫中已经没有能够在权势上压过作为前任皇帝的生母,前前任皇帝皇后的她的人。孝元皇后还掌握着过世的哀帝玉玺,把持着朝政,剥夺了作为哀帝左右手的大司马董贤的实权。作为能够代替董贤把握政权的人物,王氏一族的王莽被从领地叫回来。


孝元皇后は都に帰ってきた王莽に哀帝の葬儀を任せると同時に、軍隊発動のための諸符節、宮廷を守る禁衛の指揮権、百官に対する統制のすべてを王莽に託したのである。

在孝元皇后委任回归都城的王莽以哀帝葬礼仪式的同时,还将能够发动军队的诸符节,守卫宫廷禁卫的指挥权以及对百官统治都交给了王莽。


孝元皇后がこのような政変を断行した唯一の目的は、すなわち外戚としての王氏一族の復権を計ることだったことはいうまでもない。その結果、王氏一族の大黒柱となった王莽は、漢帝国の全権を一人で握ることになった。

孝元皇后,如此断行政变的唯一目的就是让外戚王氏一族复权。作为王氏一族顶梁柱的王莽,一人独揽汉帝国的全部大权。


王莽はさらに孝元皇后と謀議して、元帝の庶孫である中山王劉カンを新しい皇帝に選んだ。

王莽更进一步地与孝元皇后商议,选择将庶孙中山王刘衎立为新皇帝。





次の標的となるのは、哀帝の代の有力者で王莽の出世の邪魔になった人々、あるいは王莽自身が嫌っている人々である。

接下来成为他目标的是在哀帝时代的有权力者、阻碍晋升王莽的人们,或者是王莽自身讨厌的人们。


その際、王莽はいつも、自らの腹心に命じて粛清したい人の罪状を構成し、さらに別の腹心にそれを上奏させて、最後には孝元皇后に処断してもらう、というやり方を取っている。

那时王莽的做法总是命令自己的心腹手下来捏造该肃清的人的罪状,然后让别的心腹手下将这些罪状上奏,最后让孝元皇后来处断。


要するに自分はいっさい顔を出さずにして、周りの人々をうまく使って政敵を粛清していくという、いかにも偽善家王莽らしいやり方である。

也就是说自己一点面都不需要出,通过巧妙支使周围的人来肃清政敌,非常有伪善家王莽一贯的做法特色。





しかし、自らの政治権力を守るためには、「君子」であるはずの王莽はどんな惨いことも平気でやり遂げたのである。
石平(せき・へい:評論家)

但是为了保护自己的政治权利,作为‘君子’的王莽无论怎样的残酷事,都能够平静的做到。
石平(评论家)